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三吉物語について

掲載日:2014/11/01

三吉物語について

2001年12月日本聖書協会発行『SOWER(ソア)』No.19より
*文中にご紹介する社名、人名や肩書き、製品やその機能、価格等は当No.発行時のものです。
*なお、写真や図版が加わったソアのバックナンバーPDFは
HYPERLINK "http://www.bible.or.jp/soc/soc07.html"http://www.bible.or.jp/soc/soc07.html
からダウンロードできます。

およそ170年前の江戸末期、聖書翻訳に従事した3人の日本人がいました。今回は彼らの出身地である愛知県知多郡美浜町の町長として、3人の壮大な物語を日本、そして世界へ伝えようと尽力されている齋藤宏一氏にお話を伺いました。

三人の日本人とは、今日、美浜町の人々から『三吉』と呼び親しまれている、岩吉、久吉、音吉という船乗りです。彼らは嵐にあって漂流し、各地を転々とした末に行き着いたマカオで、宣教師ギュツラフと出会い、現存する日本最古の聖書である「ギュツラフ訳」の翻訳に従事したのです。

三吉の出身地である美浜町には『岩吉 久吉 乙吉(=音吉)頌徳記念碑』があり、毎年10月には『聖書和訳頌徳碑記念式典』が行われています。

また三吉に関連するイベントとして、トライアスロン大会や町民参加のミュージカルも積極的に行われており、町の大きなイベントとして広く知られています。

――齋藤町長は特に音吉に熱い思いを寄せられていると伺いましたが、はじめに音吉との出会いをお聞かせください。

小野浦に頌徳記念碑がありますから、三吉には以前から関心がありました。特に音吉に対する関心が高まったのは、春名徹先生の著書『にっぽん音吉漂流記』を読ませていただいたのが、そもそものきっかけです。

私が町長になった平成三年は、三吉の頌徳記念碑が建てられてからちょうど30周年に当たる年だったのですが、行事は『聖書翻訳頌徳碑記念式典』だけで、ほかには何の計画もありませんでした。

そこで、美浜町出身の音吉という素晴らしい人物をもっと知ってもらうために、その軌跡を紹介したパンフレットを作ったり、広報に音吉物語を掲載したり、歴史教室を開いたりと、町おこしも念頭においた活動を開始したのです。

――現在、美浜町で催されているトライアスロン大会やミュージカルの公演なども、音吉にかかわるイベントでしたね?

そうです。トライアスロン大会は『にっぽん音吉トライアスロンin知多美浜』といって、美浜町から発信するイベント第一号となったものです。

音吉の名を付けたのは、第一回大会を開催した1992年が、音吉の漂流からちょうど160年だったこと、どちらも海に関係しているうえ、その過酷さなどに共通する面があると考えたからです。

開催時にはトライアスロン協会やマスコミが外に向けて情報発信してくれるので、多くの人に美浜町や音吉のことを覚えていただけるいい機会になっており、第10回を迎えた今年も、盛大に行うことができました。

一方、ミュージカルは『音楽劇−にっぽん音吉物語』といって、劇団シアターウィークエンドのプロデューサーから、音吉を主人公にした町民参加型ミュージカルを作らないかという話がきたのがきっかけで、最初のトライアスロン大会開催の翌年7月に、約50名の町民が参加して第一回公演を行いました。

この年には音吉ゆかりの地シンガポールへの視察があり、その際にミュージカルをやりたいと働きかけたところ、翌年に第一回『草の根国際交流』として初の海外公演が実現しました。

今も国内はもちろん、シンガポール、アメリカなど、音吉とかかわりの深い国々での公演を続けており、今年はイギリスでも上演しました。

――国際交流の面では、音吉たちの漂流地に住むアメリカ先住民のマカ族とも交流を続けていらっしゃると聞きましたが……。

ええ。マカ族とは主にインターネットを介した交流を続けています。アメリカに漂着した音吉たちを保護してくれたことに感謝し、お礼をするために訪問したのが始まりです。

この訪問の際には、宝順丸が持ち込んだとされる陶器の破片を資料館に見に行ったのですが、後日実物を借り、瀬戸陶磁資料館で鑑定したところ、間違いなく当時の瀬戸物だと判明しました。

記録でもマカ族のもとに漂流したのは宝順丸だけとあるので、鑑定結果は、音吉たちの船が漂流したのはフラッタリー岬ではなく、ケープ・アラヴァだったことを確実視できる貴重な発見となりました。

――ところで、音吉たちが聖書の翻訳に従事したことに関してはどう思われていますか?

とにかく素晴らしい仕事をされたと思っています。音吉たちはマカオで宣教師ギュツラフの聖書和訳に協力したわけですが、それ以前にフォート・バンクーバーの学校で英語を勉強した記録はあるものの、彼らの使う日本語は方言だったはずなので、翻訳の際に「カシコイモノゴザル」と発想できたことを考えるだけでも感服します。

春名先生は著書で、特に貢献したのは岩吉と述べられていますが、私は貢献者は音吉だったと思っています。

その理由として、当時のイギリスの新聞に、音吉がスターリング艦隊と共に日本へ赴いた際、イギリス人の通訳に、日本の仏教、儒教、神道の由来やその発達の経緯を詳細に説明したという記事が載っていることがあげられます。

また、小説家の吉村昭さんから「音吉たちがローマ字と日本語で書いた手紙がイギリスにあるが、すべて音吉の筆跡」と伺ったこともそうです。

この手紙は後日、私も見ましたが、やはり音吉の筆跡のように思えました。こうした事柄から、当時の日本の寺子屋教育のレベルの高さや、音吉がそこで十分な知識を習得したことが推察できます。

音吉は三人の中でいちばん若かったので、適応性が最も高かったともいえますが、さまざまな記録からも、能力的に優れていたのは音吉ではなかったかと思うのです。

――21世紀はグローバリゼーションの時代といわれていますが、諸外国の人々と付き合っていく際に、音吉から何を学ぶべきでしょうか。

私は、国際交流を進める中で大事なのは、まず自国とその文化を正しく理解すること、そして日本人としての誇りをもって諸外国の人々と付き合うことだと考えていますので、こうした点からも、音吉の姿には見習うべきところが多いと思います。

音吉は外国でも堂々と日本の服装をしていたようだし、同じく漂流民となった日本人を預かり、手を尽くして日本へ帰してあげている。

息子には日本へ行きなさいと遺言までしている。国家間の交流さえままならなかったあの時代に、外国に住むことを余儀なくされても、音吉は最後まで日本を誇りに思っていたのです。本当に立派だったと思います。

――今のお話にもあったような音吉のさまざまな働きは、聖書の力によって支えられていたと思われるのですが……。

そうですね。音吉は早い時期にクリスチャンになっていましたので、もちろん聖書の影響を受けていたと考えられます。

それから音吉が日本の心を持ち続けていたことも忘れられません。つまり音吉の働きは、聖書の力と同胞愛に支えられていたのではないかと思うのです。そうでなければ、日本に見切られた人間が、あれほどまで日本に情けをかけられるわけがないですから。

音吉は、福沢諭吉らの遣欧使節団がシンガポールに寄留した際、わざわざ訪ねて行き、アヘン戦争の経過や太平天国の乱をはじめ、彼が知りえていた当時のあらゆる情報を伝えていますが、これは聖書の力に支えられ日本を思い続けた音吉だからこそできた日本への警鐘ではないかと、私は思っています。

――最後に今後の展望として、音吉にかかわる取り組みについてお聞かせください。

まずは息の長い国際交流として、ホームステイの受け入れ態勢を強化すること。すでにイギリス、シンガポールなどから子どもたちを受け入れているし、今後はこちらからも子どもたちをどんどん行かせたい。

マカ族からも、来年はまた学生を送りたいとのメッセージが届いています。新国際空港もじきに開港するので、空港に一番近い町、世界の人たちを受け入れるホームステイ宣言の町としての体制を整えていこうと思っています。

このほかには、音吉の終焉の地シンガポールの日本人墓地に記念碑を建てる計画も進めていますし、歴史教科書の中には、内海や小野浦を基点とする江戸時代の千石船・内海船のことや、モリソン号事件と乗船者の中に7人の日本人漂流民がいたことを記述したものもあるので、音吉のことが載るのもあと一歩だと思っています。

さらに長期の展望として、世界の漂流記念館的な施設の建設プランもあります。いずれも息の長い仕事ですが、地道に仲間を増やし実現させていきたいと考えています。

――本日はたいへん興味深いお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。

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